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女優・長岡輝子が残した、鱚ヶ浦の回想録



「震災後、私たちは毎年の夏休みを房州の保田と勝山のあいだにある鱚ヶ浦で過した。亀ヶ崎と呼ぶ秀麗な緑のこんもり繁った島が岸から少し離れたところに浮いているので、ちょうどその島のために海岸が内海になり、紺碧に澄んだ水は湖のようになめらかで、まるで天然のプールのようだった。水平線の向いには大島、城ヶ島が見え、夜になると三崎と観音崎の灯台の火がピカリ、ピカリと明滅する。この海岸線に沿った細い国道は館山、北条へと延びていて反対側は鉄道線路をひかえて山や畑や田圃があって藁葺屋根の農家が点在しており、枇杷や夏蜜柑の山のあいだから瓦を焼く煙が見えた。ここには一軒の店もなく、小さな小学校と妙本寺という日蓮宗の大きなお寺のほかは、農業のかたわら、あわびや磯物をとりにいく住民たちがひっそり住む小さな村だったが、少し足をのばせば右手は保田、左手は勝山と、このへんではちょっとした町があったので日常の買い物もそこで間に合った。父がこの海辺を見つけたのは、大倉商業で国語の先生をしていた松山米太郎先生がすでに「陸舟庵」と名づけてお茶人らしい庵を結んで楽しんでいらしたからだが、毎夏をこの海辺で家を借りて過すうちに、父はその俗っぽさのない美しさに惹かれ、子供たちの健康のためにと、はじめて自分の家を建てることにした。」 「房州・鱚ヶ浦の青春」より

 

女優の長岡輝子(1908-2010)が著した自伝『父からの贈りもの』(1984年:草思社)という本がある。この本には「房州・鱚ヶ浦の青春」という文章が収録されている。長岡輝子の父で英文学者の長岡拡(ひろむ)は、昭和2年ごろに、保田の鱚ヶ浦(きすがうら)に家を建てた。長岡輝子が19歳の頃だった。この文章には、保田、鱚ヶ浦で過ごした思い出が綴られている。

『父からの贈りもの』は長岡輝子が幼稚園から自立をめざしパリでの演劇修業までの20年を振り返った自伝だ。長岡輝子が自分の人生を切り開いていく様子や葛藤が、エモーショナルに綴られている。タイトルの通り、この自伝に通奏低音のように響くのが父の存在、父との絆だと思う。

「財産は子供のためにならない。そのかわりしたい勉強はなんでもできる限りさせてやろう」 「ご褒美は成績の悪い子にあげよう。一番つらい思いをしているのだから」

これは文中にある父の価値観を表す言葉だが、このような父の存在が自分の人生を前進させる力となったのだろう。

私は戦前における鱚ヶ浦を中心に旧保田町に育まれた、海浜別荘や避暑の文化的エピソードを採集し、まとめた『保養地保田 きすがうら事典』という本を自作した。この調査では、当時の鱚ヶ浦の様子について、まとまった記述が乏しく、地元の高齢者の話を聞き、断片的な記述に依りながら情報をつなげていくことで、全体像が見えて行くのが定石だった。このような調査の中で、出会った長岡輝子の文章には、鱚ヶ浦の描写や別荘人同士の交流や当時の様子が雰囲気をもって記されており、私はこの文章と出会ったことで、調査に弾みがついたと同時に、「よくぞ残して下さった」と、感謝の念を抱きながらページをめくった。

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