ここ4年ほど取り組んできた本が出来上がりました。大正時代に保田吉浜に別荘を構え、のちに移住した松山吟松庵の人物像について、保田の地域史の観点からまとめたものです。
松山吟松庵は、明治初期に金沢の骨董商家に生まれた人で、帝大文科大学国史科を卒業し、中学教師をつとめた後、茶道研究者として知られました。50歳で教職を退き保田に移住すると、茶道の古典研究に邁進し、活躍しました。元来難解かつ難読だった古典をサラサラと読みこなす吟松庵のもとには、様々な学者が教えを乞いに来たそうです。茶人もまた同様で、益田鈍翁は歳下の吟松庵を大先生と呼び尊敬しました。
美術に対して目が利き、まさに茶湯における文物を総合的に研究した人でした。茶道文化の衰退期を、知能的な面から支えた知る人ぞ知る功労者と言えるでしょう。かの仏教文学研究者松山俊太郎は、吟松庵の孫でした。
吟松庵の業績や生涯を振り返ると紛れもなく、茶道研究者としての面がその真骨頂であるのが間違いないことがわかります。しかし、一個の人としては、巨視的なスケールの中、自由自在に遊んだ文人とも言える人でした。
保田吉浜の海辺に理想郷を見出し妻と2人で質素に暮らしました。保田の自然と、散歩と海水浴を愛し、創作的な日々を送りました。
当時の保田は、多くの学者や実業家、軍人が別荘を構えていました。その中でも、吟松庵の家の近所には親交のあった学者らが別荘を構えるようになりました。生物学者の小泉丹や、英語学者の長岡拡、漢文学者の村上龍英、ラジオ無線研究者で実業家の茨木悟などといった面々です。吟松庵は彼らの世話もし、親交を結びました。当時の保田吉浜の界隈は、吟松庵を中心とした固有の別荘人同士、地域の人との文化的交流が紡がれていたのです。
保田の自然や人を愛した吟松庵の生き様は、永遠のいまに輝く一筋の光におもわれてなりません。
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