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日本画家 田中一村が描いた『入日の浮島』


保田の大六海岸から、浮島(うきしま)の夕景を描いた絵画作品がある。名前は『入日の浮島』という。この絵を描いたのは日本画家の田中一村(1908-1977)だ。

栃木県に生まれた一村(本名:田中孝)は、彫刻家の父から南画を教えられ、その画力は「神童」と謳われていた。1926年には、東京美術学校日本画科に入学したが、父が体調を崩し入学直後に中退。その後は南画を描いて一家を支えた。30歳の時には、東京から親類の川村幾三氏をたより千葉市千葉寺町に移り住んだ。後に奄美大島に移住するまで約20年間、千葉寺の農村風景など多数の作品を残している。 1947年、青龍社展に「白い花」を出展し初入選を果たし、米邨から一村と号を改めが、この展覧会は、一村が生前に作品を世間に発表した唯一の機会となった。翌年に出品した「秋晴」は落選。その他の公募展にも挑戦したが落選を繰り返した。 画家として日の目を見ない状態が続いた田中は、「自分の信ずる絵の正道を歩く」と1958年に奄美大島に移住。奄美では染織工場で働きながら、現地の動植物を独特の世界観、技法で描いた。1977年9月11日、心不全により無名のまま生涯を閉じた。一村の本懐である奄美で描いた作品は生前に発表することは無かったが、没後にテレビ番組が紹介したことをきっかけに注目を集め、全国で展覧会が催されるに至った。

『入日の浮島』は一村の千葉時代に描かれた作品だ。私がこの作品を知ったのは、2010年9月に千葉市美術館で開催されていた企画展『田中一村 新たなる全貌』の会場での事だった。会場の壁に見慣れた風景が掛かっているのに気付き、歩み寄ると説明板に『入日の浮島』と書かれていた。後日、美術館で買った図録を手に、作品に描かれた風景を探しに行った。作品の中の浮島と手前のみさご島の重なり具合が同じになるのは、保田の亀ヶ崎の南側、大六海岸の一角だった。  この作品は、1947年に公募展に出展し入選したものといわれる。一村は、終戦直後に川村氏の車に乗り2人で房総半島をまわり、スケッチや取材を行った。千葉市から外房の夷隅と館山市でスケッチをし、内房の保田から北上し千葉に帰ったものと思われる。  一村が保田を訪れた時は夕刻で、国道から細道を入った静かな大六の浜に2人の乗った車がつくと、そこには神々しい夕焼けが広がり、浮島が美しい点景を演出していたであろう。公募展に向け製作に励んでいた一村は、大六での風景との出会いに何を思ったろうか。

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