top of page
  • 執筆者の写真

英語学者・紀太藤一

更新日:2022年2月1日


英語学者・紀太藤一


 南房総の名勝・鋸山に位置する海辺の町保田は、明治時代から汽船で来る旅行地として知られていました。大正6年に鉄道の保田駅が開通すると、それまで就航していた汽船航路と相まって町には避暑客があふれ、戦前の保田は、学者・教育者や実業家などに好まれた別荘地となりました。

紀太藤一肖像写真
紀太藤一肖像写真(百溪英一氏提供)

 今回は、「一皿の焼き魚」から保田に魅せられ、のちに保田に移住した紀太藤一(きたとういち)という英語学者について紹介します。なお、この文章は、百溪文枝氏(紀太藤一の末娘)が手記していたものを基に保田文庫が加筆させて頂き、その内容を紹介するものです。手記の内容については、紀太藤一の孫である百溪英一氏に提供を頂きました。



【紀太藤一とはどのような人だったか】

 紀太藤一は、明治時代に生まれ、大正時代から昭和戦前期にかけて教育者、英語学研究者、翻訳家、英語文法書著者など幅広く活躍した人物でした。生年は、1879年(明治12)9月9日。1936年(昭和11年)10月7日に58歳で亡くなりました。




【学生時代】

 藤一の少年時代、学生の頃のあだ名は「カビ」と呼ばれていたそうです。その理由は部屋で勉強をしている時間が長く、玄関先の草履にカビが生えるほどであったということから友人がつけたといいます。学問に熱中していた様子が目に浮かびます。


【土浦中学教員時代】

 紀太藤一は、明治34年から39年まで土浦中学(現土浦一高)の教師を務めました。当時の同校は、厳しい校風かつ全国トップレベルの進学校でした。同校での経験は、生来生真面目で、後に受験生のための参考書の著者として活躍した藤一の人生に大きな影響があったことでしょう。同校に6年間奉職した藤一ですが、好きな英語の教員を志して依願退職し、東京に出ました。


【大学教員時代】

 上京した藤一は、母校である私立正則英語学校の教師となった後、日本大学、中央大学で英語の教授を歴任しました。英語の教員という夢を実現し、さらにその途上、生徒の英語力の不足を感じたのか、藤一は、受験生のための分かりやすい本を書こうと、大正6年6月に中央大学教授を退職。以後は学習参考書のほか、「グリム童話」や「イソップ寓話」などといった西洋の古典的文章の注釈書など、英語教育に関する著作を発表していきます。


【保田との出会い】

 藤一と保田との出会いは、1917年(大正6)7月の事でした。東京から房州方面に出かけた折、藤一は保田町にあった老舗旅館・松音楼で昼食をとりました。その時に出されたアジの塩焼きに舌を鳴らし、東京では食べられない美味しさに感激し、「このような所に家を建て著作できたら」と心を踊らせ、すぐに地元の漁師に頼んで家を借りたという逸話が残っています。


【千葉県保田町に住む】

 藤一は、大正11年の1月に松音楼旅館・観音寺の近くの土地を実業家の前田一から購入すると、著作業で得た収入をもとにして立派な家を建築しました。そして、家族と共に東京神楽坂通り寺町39の自宅から保田に移り住んだのでした。東京と異なり、空気の良い自然に恵まれた地で採りたての魚や野菜を食べ、保田の生活が始まりました。藤一は、保田という新天地で、それまでに歩んできた英語教育の経験をもとに著作業に邁進したのです。

 受験生向けの分かりやすい参考書が少なかった当時、藤一が著した英語参考書は神田の武田書店から次々と出版され好評で大変売れたといいます。さらに学生向の参考書以外にも多くの翻訳本を執筆しました。

 このころの保田には、著名な学者や文化人が移り住んでいました。よく知られたところでは、物理学者・石原純と女流歌人・原阿佐緒が藤一がかつて訪れた松音楼旅館に駆け落ちし世間をにぎわせたのが大正10年。翌年には保田小学校裏の丘に洋館を構え移り住みました。このほか茶道研究者・松山吟松庵はこのころ、保田のはずれの吉浜海岸に別荘を構え、後に移住しました。特に吟松庵の日記には、藤一との交流が書き残されています。


【保田に建てられた豪華な家】

 藤一は、保田の土地に豪華な二階家の自邸を建てました。当時の保田界隈には二階家の自宅は珍しく、1銭で物が買えた時代にあって、1万2千円の総檜作りの豪華な二階家だったといいますから、さぞ目を引いた建物だったことでしょう。

 末娘の百溪文枝さんの手記によると、「二階の踊り場を上がり左側に日本間、床の間の地袋には金箔が施された絵が描かれ、四季折々の掛け軸の美しさは忘れられなかった。右側には藤一の書斎があり、家の窓からは保田海岸に浮かぶ白いヨットも見えた。庭には楽園を思わせるような花木果物の木が数種あり、新築の檜の香りや庭の芝生の緑の様子が美しく印象的だった」と当時の邸内の情景が記されています。

 大正15年に出版された藤一の著作『初等英語独習自在』の序文は「窓外に翠緑滴る如き 初夏の鋸山を眺めつつ」と添えられています。保田の風光を好み著述に励む藤一の姿が想像されます。


【豪華な屋敷に訪れる貧乏神】

 子供の頃裕福な家庭環境で過ごした藤一。東京に出てからは一人の生活は大変だったでしょうが希望に燃え、英語の道を進みました。その甲斐あって大当たりした英語の参考書で立派な家を持ったのです。このころが藤一幸せの絶頂だったのではないでしょうか。しかし、関東大震災を期に、一家に貧乏神が訪れようとは学問一筋の歩んできた藤一には想像すらできなかったのです。


【関東大震災による転機】

 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起こりました。保田町においてもその被害は甚大で、特に海沿いの地域に被害が集中しました。内陸に位置する新築の自邸は幸いにも潰れず、近隣の人達が廊下や部屋に避難してきて、余震を怖がっていたといいます。

 一方で東京、神田にあった武田書店他、取引のあった出版社が被災し倒産してしまったために藤一の参考書が発行できなくなり、予定されていた印税が入らないという大惨事に見舞われてしまったのです。藤一のもとには、住宅と土地を購入した際の多額の借金が残ってしまいました。藤一は、子ども5人と妻と母親の合わせて8人の生活と借金返済のために、1927年(昭和2年)に東京・四谷に家を借りて単身上京し赤坂中学(現在の日本大学第三中学校・高等学校)の教師になり、日曜日には保田町の家族の元に帰るという生活をつづけました。昔は先生の給料は安く、ひとつの学校の収入だけでは足りずに夜学に教えに行く時代だったといいます。

 藤一は、車道よりも低いところにある四ツ谷駅に向かい、夜学に出勤しました。すれ違うのは、一日の仕事を終え、家路につく人々。自分は駅の方に下って歩いて夜学を教えに行くことを「何とも寂しいことだ」と言っていたそうです。



「大正十二年九月一日に起った大地の大揺ぎは時間から言えば数秒であったけれども其影響の甚大であったことは此處に事新らしく書き立てるまでもなく世人が皆知悉している所であるが、私の様にここ数年間房州鋸山の南麓にある保田という小さい町に自然を友として活社会と殆んど没交渉な生活を致している様な者にも一つの大きなshockを与えられた。東京の大火事は拙著の原版を殆んど悉く灰燼に帰せしめた。其結果凡て事を新らしくしなければならなくなった。(中略)


房州保田の我が家に於て大島の噴煙の盛に立ち上るを見つつ」



 1931年(昭和6年)に藤一の母親・しかのさんが亡くなり、家族全員は保田の家から四ツ谷の家に引っ越しました。以降、保田の家は子供たちが親の事情も知らずに夏休みに1ヶ月滞在し楽しみに海水浴を満喫する別荘となったのでした。



【赤坂中学での授業】

 藤一は昭和2年から赤坂中学で教鞭をとりました。同校での藤一は、剣道の竹刀を必ず手にして教室に入って授業をしていたといいます。これは真剣に授業を聞かない生徒の机を叩くためのもので、その為か英語の授業は皆真剣に聞き語学力は他の科目よりも抜きん出て高い水準を得ていたそうです。この逸話は藤一の葬儀の日に学校が配布した一冊の薄い本「故紀太藤一先生を偲ぶ」に記されています。



【勤勉に働く先に病魔が】

 汗を流し家族のために働く藤一の生活は、不健康な状態だったのか昼夜と働くうちに体調を崩し肝炎を患い、肝硬変に進行。1936年(昭和11年)10月7日、ついに帰らぬ人となったのです。


【葬儀の日】

 父の葬儀の日、末娘の文枝さんは、四谷坂町(現在の防衛省近く)の家から四ツ谷駅近くまで、赤坂中学の全校生徒がアリの様に並び霊柩車が通る所で、将棋倒しの駒のように頭を下げていた光景が忘れられないといいます。


【その後の保田の別荘】

 藤一の妻・つるは、藤一が生きているうちは別荘を手放すまいとしていましたが、藤一亡き後、昭和13年に生前親交のあった「保田養生院」院長の山口琴三医師が檜普請の家を購入しました。解体された家は永福町まで運搬され山口医師の長男の住まいとして再建されたのでした。東京に移築されたのも戦前の事ですから、この建物が現存するかは不明です。

 一方、土地は昭和17年に地元の農家の川名氏が購入してくれ、藤一の作った借金は全て返されたといいます。平成7年には末娘の文枝さんとが山口医師の長男・山口和雄(北大教授・経済学者・民俗学者)と川名氏宅に行き、霊前にお礼を述べたそうです。この訪問は、藤一の妻が生活で手一杯であったことから、川名氏へのお礼を欠いていたのではとの配慮からであったといいます。


【紀太藤一を巡る人々】

恩師・斎藤秀三郎 

 1900年(明治33年)に出会った、藤一の人生に大きな影響を与えた恩師でした。斎藤秀三郎はすさまじき勉強、仕事、生活で知られ、63年の生涯で英和・和英・英文法など200巻を書き上げた、明治・大正期を代表する英語学者・教育者。


教え子・西尾孝

 日本の英語講師。早稲田大学教授、代々木ゼミナール英語科講師などを歴任。「実戦英語水準表」シリーズ(日本英語教育協会(旺文社の関連団体))に代表される、数多くの大学受験英語参考書などの著作がある。


茶道研究者・松山吟松庵

 明治時代から昭和初期に活躍した、国文学者・茶道研究者。大正時代から保田に別荘を持ち、後に保田に移住した。移住後は、茶道の古典を復刻解説する著作を次々と発表し活躍した。藤一とは保田の生活の中で日常的な交流を持っていた。


政治学者・吉野作造

大正デモクラシーの立役者として知られる思想家、政治学者の吉野作造。吉野作造日記には保田の紀太藤一との交流がこのように記されている。


●大正11年5月2日、「保田に講演にゆく 紀太藤一君大に活動して居られる。有川君も同地に地面を買ったそうなり」


●大正11年6月5日、「夜藤井君 保田の紀太藤一氏来訪」


ちなみにこの有川君とほ、朝鮮銀行調査部に勤務し後にジャーナリストとなった有川治助のことと思われる。主著に『ヘンリ・フォード-人及びその事業』『ジョン・ディ・ロックフェラー:人及びその事業』がある。

 『ジョン・ディ・ロックフェラー:人及びその事業』には、吉野作造と有川治助との関わりが記されている。


【業績・著作】

* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943012 バイオグラフィカルストウリズ詳解] 紀太藤一著

* パーレー万国史 欧羅巴の部 2 紀太藤一訳註

* フィフティ・フェイマス・ストゥリズ 紀太藤一訳註

* 和文英訳詳解 紀太藤一著

* ワンダブック ゴ−ガンノ頭 [第11冊] ホーソン著 紀太藤一訳註

* Hawthorne,Nathaniel(1804−1864) 紀太藤一

* イソツプ物語 紀太藤一訳註 武田芳進堂 1914年

* イーソップ物語詳解 紀太藤一訳 AEsopus 芳進堂 1917年

* 英文解釈法精講 : 構文研究 紀太藤一著 三宅書店 1928年

* グリムのお伽噺 紀太藤一訳註 武田芳進堂 1914年

* 初等英語独習自在 紀太藤一著 武田芳進堂 1926年



【紀太藤一 略歴】

1898年(明治31年) 3月東京私立明治義會中学校卒業。

1898年(明治31年) 4月学校法人青山学院(東京私立青山学院高等科)にて修学。

1901年(明治34年) 3月正則学園高等学校(東京私立正則英語学校)英文科にて英語の研究を行う。校長・斎藤秀三郎より薫陶を受ける。

1901年(明治34年) 6月 茨城県立土浦中学校(現・土浦第一高等学校)教諭心得拝命。

1902年(明治35年) 3月 文部省中等教員英語科検定試験合格

1905年(明治38年) 同校舎監心得拝命(舎監=寄宿舎を管理・監督するもの)。

1906年(明治39年) 9月 茨城県立土浦中学校を依願退職。

1909年(明治42年)第23回:師範学校・中学校・高等女学校教員検定予備試験(文検)

1910年(明治43年) 4月 東京私立正則英語学校にて英語を教授する。

1911年(明治44年) 4月 日本大学にて英語を教授する。

1912年(大正元年) 矢内つると結婚(東京・上野精養軒にて)

1916年(大正5年) 3月 中央大学にて英語を教授する。

1917年(大正6年) 6月以降、千葉県保田町(現在の鋸南町)に居住して、英語に関する著作に従事する。

1927年(昭和2年) 4月より亡くなるまで東京私立赤坂中学校(現在・日本大学第三中学校・高等学校)教員。

1936年(昭和11年)10月病気により死亡。享年58。


 

 以上、英語教育の世界で活躍した紀太藤一と保田とのかかわりを記してきました。関東大震災という天災は、紀太藤一にとって不運ではありましたが、一方で保田との出会いは、自身の創造性をはぐくむ転機であったのではないかと思います。その出会いは、一皿の魚の焼き物だった。藤一は、魚の味に保田の風土や人情など、さまざまのものを感じ得たのでしょう。それはまさにセレンディピティにほかなりません。紀太藤一が味わった一皿のエピソードには、この土地を知る上での大切なことが詰まっていると保田文庫は考えています。


さいごに、貴重な資料を提供いただいた百溪英一氏と百溪文枝氏に心より感謝を申し上げます。




bottom of page